J-POPの楽曲は書き割り。「内側系」「外側系」

演劇用語 - シアターリーグ
http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/meaning/kakiwari.htm

舞台セットにおいて、風景や建物が描かれた大きな板(張り物)のことを、
「書き割り・遠見」と言います。
作品に臨場感を持たせる役割を果たしています。

多くのJ-POPでは曲は「書き割り」です。
J-POPの多くはリスナーのセルフイメージを演出するためにある。恋愛、仕事、生活一般の中では全て自分の思い通りに行くわけではないですよね。時に傷つき、我慢し、ハッタリをかまし、姑息な手段も使わなければならないこともあれば、計算して打算的に動かなければいかないこともあります。実際そういうことだらけかもしれないです。
現実の中で何かすり減っていくものがあります。昔のピュアな自分はもういない気がします。強い自分、賢い自分、正しい自分、純粋で真っすぐな自分、みんなから慕われる人気者の自分。それらのセルフイメージが失われていく恐ろしさ!
歌を聴くときその人のセルフイメージはすでに傷ついています。そして歌を聴いているうちにセルフイメージを回復していることに気づきます。
そうです。それこそが歌のもつ効能なんです。

俺はJ-POPに不満でした。でも週刊文春の連載「考えるヒット - 近田春夫」のなかの「J-POPとはほとんどが女性のために作られている」という意味の一文がヒントになり、考えた結果上のような「J-POP≒書き割り」という考えに至りました。
俺のJ-POPに対する不満はJ-POPの意味に気づいた結果、随分と解消されました。

J-POPの多くは、と書きましたが、決して多数ではないですがセルフイメージの回復以外の目的で作られたJ-POPもあります。セルフイメージの回復というのはいじわるな見方をすれば「自分に対する言い訳」なんですが(ちなみに言い訳は生きる上で必ず必要なものです)、その場合歌の世界観は「働く自分」だったり「恋する二人」だったりします。つまり社会の内側を描いているわけです。
一方で社会を外側から見た視点というのも存在します。「働く自分」、「恋する二人」になるのではなくそれらを外側から見てしまう視点です。
外側からみるとそれらを自由に扱う事が出来ます。観察することが出来ます。批判する事が出来ます。否定することも出来ます。
観察、批判、否定するとどういう歌が出来るかというと、まずお笑い的なものが出来ます。ロックやヒップホップにある社会派な歌や怒りの感情というパターンも出来ます。観察だけに徹すれば達観した枯れた歌が出来ます。外側に出て社会を渡り歩くさすらいの旅人の歌というのも出来ます。

そういった「外側系」が俺は好きだと分かりました。なぜなら俺が外側の住人だからです。

また、「外側系」には自由さがあります。「内側系」にはお約束があってリスナーのセルフイメージの回復のために機能する演奏、作曲が大前提となります。つまりどこまでいっても曲は書き割りにすぎず、そこをはき違えてはならないのです。凝るにしても、最新のモードを取り入れるにしても、好きな要素だけ詰め込むにしても自由ですがあくまで「内側系」を作曲する時には書き割りにすぎないということです。舞台の書き割りに注ぎ込むエネルギーは一定までで十分です。舞台の目的は観客が入り込んで現実を忘れて没頭出来るようなストーリーを演出し作り出すことにあるからです。そのために役者も演出家も脚本家も大道具、小道具さんもいるのです。

一方「外側系」に許された自由とは歌詞にタブーがないこと、曲に欲望のままどんな方向のエネルギーであってもいくらでも注ぎ込むことが出来ることです。

そんな楽しい「外側系」ですが、売り上げが伸びないのであまり儲かりません。ちゃんちゃん。

しかし手はあって多くの「外側体質」な「内側系アーティスト」は上手に外側的なものを内側での活動に反映させています。その案配とバランスの具合はとてもセンスがいるので成功するとすごく面白い歌が出来上がります。俺はそういったものが好きです。